失われた一匹の羊

*霊感の言葉*

キ実166、167
 やっとのことで遠方から羊のかすかななき声が聞こえたときに、羊飼いはどんなに安心したことであろう。彼は、そのなき声をたよりに、自分の身の危険もかえりみないで、けわしい坂をよじ上って、絶壁の頂上まで行く。こうして捜しているうちに、なき声はいよいよ弱まり、今にも死にそうになっているのがわかるが、ついに、彼の努力は報いられ、いなくなった羊が見いだされる。さて、彼は、その羊に向かって、お前は、ずい分わたしにやっかいをかけたといってしかったりはしない。むちでかりたてようともしない。また、おりにひいていこうともしない。彼は、喜びのあまり、ふるえる羊を肩にのせる。もし、傷ついていたりすると、しっかり自分の胸にだきしめて、自分の心臓の温まりで、元気づけてやろうとする。羊飼いは捜索がむだにおわらなかったことを感謝して、羊をおりまでかかえて帰るのである。

希上11
 キリストのうちにあるときに、われわれは堕落しなかった場合よりももっと密接に神につながるようになるのである。救い主は、われわれの性質をおとりになることによって、決してたちきれることのないきずなでご自分を人類にむすびつけられた。永遠にわたって、キリストはわれわれとつながっておられる。

希上124
 4000年間にわたって、人類は体力も知力も道徳価値も低下していた。しかもキリストは退歩した人類の弱さを身につけられた。こうすることによってのみキリストは人類を堕落の一番深い底から救うことがおできになるのであった。・・・だが救い主は、罪の負債ごと人性をおとりになった。彼は試みに負ける可能性のまま人間の性質をおとりになった。

希下182、183
三度、イエスはその祈りを口にされた。三度、人性は最後にして最高の犠牲の前にひるんだ。しかしいま人類の歴史が世のあがない主の前に現われる。律法を犯した者たちは、放っておけば滅びなければならないことを、主はお知りになる。主は人類の無力をさとられる。主は罪の力をお知りになる。滅びる運命にある世のわざわいと嘆きが主の前に現われる。主は、世のさし迫った運命を見て決心される。ご自分がどんなに犠牲を払ってでも、主は人類を救おうとされる。滅びつつある幾百万の人がイエスを通して永遠の生命を受けられるように、イエスは血のバプテスマを受け入れられる。主が純潔と幸福と栄光に満ちた天の宮廷を去られたのは、失われた一匹の羊、罪とがによって堕落した一つの世界を救うためであった。だから主は、ご自分の使命から離れようとなさらない。イエスは、罪を犯した人類のためにあがないの供え物となられるのである。いまイエスの祈りには、「この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」と、服従することだけが表明される (マタイ26:42)。