律法の要求が満たされる

律法と福音の関係について考える。「律法によっては、罪の自覚が生じるのみである」(ローマ3:20)。自分の罪を悟るためには、罪人は自分の品性を、神の義の偉大な標準によって吟味しなければならない。それは、正しい品性の完全さを示して、罪人に自分の品性の欠陥を発見させる鏡である。ところが、律法は、 人間に罪を示すが、救いは与えない。律法は、服従する者には生命を約束するが、犯す者には死を宣告する。 人間を罪の宣告や罪の汚れから解放することができるのは、キリストの福音だけである。多くのクリスチャンは、わたしたちが「律法の下にあるのではなく、恵みの下にある」(ローマ6:14)ので、律法は十字架によって破棄され、神の律法はもはや拘束力がなく、十戒を守る必要はないと考える。しかし、このような教えは聖書全体の教えと調和しない。神は私たちに神への服従を要求なさる。しかし私たちには律法に従う力がない。私たちの心は、神の律法の原則と争うようになった。「肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである」(ローマ8:7)。しかし、神は、人間が神と和解することができるように、「そのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。」人間は、キリストの功績によって、創造主との調和を回復することができるのである。

 

こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。 ローマ人への手紙8:1-4

  • ローマ3:31
  • マタイ5:17, 18
  • へブル8:8-12