第15課 我らの大祭司キリスト

1. 地上の聖所において一年に一度大祭司はどこに入りましたか。

◎ 出エジプト25章から30章を研究して下さい。

「これらのものが、以上のように整えられた上で、祭司たちは常に幕屋の前の場所にはいって礼拝をするのであるが、幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない。」ヘブル9 : 6, 7

 

2. あがないの日は、最も厳粛な日でありましたが、どんなことが行われましたか。

「主はまたモーセに言われた、『特にその七月の十日は贖罪の日である。あなたがたは聖会を開き、身を悩まし、主に火祭をささげなければならない。その日には、どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのために、あなたがたの神、主の前にあがないをなすべき贖罪の日だからである。すべてその日に身を悩まさない者は、民のうちから断たれるであろう。またすべてその日にどのような仕事をしても、その人をわたしは民のうちから滅ぼし去るであろう。あなたがたはどのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて、代々ながく守るべき定めである。これはあなたがたの全き休みの安息日である。あなたがたは身を悩まさなければならない。またその月の九日の夕には、その夕から次の夕まで安息を守らなければならない。」レビ23 : 26-32(注1)

「アロンが聖所に、はいるには、次のようにしなければならない。すなわち雄の子牛を罪祭のために取り、雄羊を燔祭のために取り、」同16 : 3

「またイスラエルの人々の会衆から雄やぎ二頭を罪祭のために取り、雄羊一頭を燔祭のために取らなければならない。そしてアロンは自分のための罪祭の雄牛をささげて、自分と自分の家族のために、あがないをしなければならない。アロンはまた二頭のやぎを取り、それを会見の幕屋の入り口で主の前に立たせ、その二頭のやぎのために、くじを引かなければならない。すなわち一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためである。」同16 : 5-8

「イスラエルの人々の汚れと、そのとが、すなわち、彼らのもろもろの罪のゆえに、聖所のためにあがないをしなければならない。また彼らの汚れのうちに、彼らと共にある会見の幕屋のためにも、そのようにしなければならない。彼が聖所であがないをするために、はいった時は、自分と自分の家族と、イスラエルの全会衆とのために、あがないをなし終えて出るまで、だれも会見の幕屋の内にいてはならない。そして彼は主の前の祭壇のもとに出てきて、これがために、あがないをしなければならない、すなわち、かの雄牛の血と、やぎの血とを取って祭壇の四すみの角につけ、また指をもって七たびその血をその上に注ぎ、イスラエルの人々の汚れを除いてこれを清くし、聖別しなければならない。こうして聖所と会見の幕屋と祭壇とのために、あがないをなし終えたとき、かの生きているやぎを引いてこなければならない。そしてアロンは、その生きているやぎの頭に両手をおき、イスラエルの人々のもろもろの悪と、もろもろのとが、すなわち、彼らのもろもろの罪をその上に告白して、これをやぎの頭にのせ、定めておいた人の手によって、これを荒野に送らなければならない。こうしてやぎは彼らのもろもろの悪をになって、人里離れた地に行くであろう。すなわち、そのやぎを荒野に送らなければならない。」同16 : 16-22(注2)

 

3. 天の聖所が清められる必要があるでしょうか。

「こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。このように、天にあるもののひな型は、これらのものできよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更にすぐれたいけにえで、きよめられねばならない。」ヘブル9 : 22, 23

 

4. 天の聖所はいつ清められますか。

「彼は言った、『二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する』。」ダニエル8 : 14
(わたしは一日を一年として四十日をあなたのために定めるエゼキエル4 : 6;民数記14 : 34参照)。

5. この長い期間のうち、ユダヤ人のために当てられている期間はどれくらいだと天使は言いましたか。

「わたしがこう言って祈り、かつわが罪とわが民イスラエルの罪をざんげし、わが神の聖なる山のために、わが神、主の前に願いをしていたとき、すなわちわたしが祈の言葉を述べていたとき、わたしが初めに幻のうちに見た、かの人ガブリエルは、すみやかに飛んできて、夕の供え物をささげるころ、わたしに近づき、わたしに告げて言った、『ダニエルよ、わたしは今あなたに、知恵と悟りを与えるためにきました。あなたが祈を始めたとき、み言葉が出たので、それをあなたに告げるためにきたのです。あなたは大いに愛せられている者です。ゆえに、このみ言葉を考えて、この幻を悟りなさい。あなたの民と、あなたの聖なる町については、七十週が定められています。これはとがを終らせ、罪に終りを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです』。」ダニエル9 : 20-24

 

6.この期間はどんな事件で始まりましたか。

「それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。」ダニエル9 : 25

「そして王の七年の五月にエズラはエルサレムに来た。すなわち正月の一日にバビロンを出立して、五月一日にエルサレムに着いた。その神の恵みの手が彼の上にあったからである。エズラは心をこめて主の律法を調べ、これを行い、かつイスラエルのうちに定めとおきてとを教えた。」エズラ7 : 8-10(注3)

 

7. メシヤが現われる時まで何年ありましたか。

「それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。」ダニエル9 : 25

7週と62週、すなわち69週。これは483年間に相当します(図解を参照)。

8. 70週にはどんな大きな事件が起ることになっていましたか。

「その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではありません。またきたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう。その終りは洪水のように臨むでしょう。そしてその終りまで戦争が続き、荒廃は定められています。彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです。」ダニエル9 : 26, 27(図解を参照)

 

9. 70週の終わり、すなわち490年の終わりには、どんな事件が起りましたか。

「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起り、使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った。信仰深い人たちはステパノを葬り、彼のために胸を打って、非常に悲しんだ。ところが、サウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒し回った。さて、散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた。」使徒行伝8 : 1-4

紀元34年に、ユダヤ人はステパノを石で打ち殺し、福音を公に拒んだので福音は異邦人に伝えられました。

10. 2300日はあとどれほど残っていましたか。

◎ 2300年から490年を引けば1810年残ります。490年は紀元34年に終わっていますから、これに2300年の残りの1810年を加えると、この重要な預言は紀元1844年に終わっていることになります。

11. 2300年の終わりである1844年に、何が始まると天使ガブリエルが言いましたか。

「彼は言った、『二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する』。」ダニエル8 : 14

 

注釈

【注1】1年のうち1日を除いた他の日の奉仕は、すべて聖所と関係がありました。至聖所にあった契約の箱の中の十戒は罪人の生命を要求しました(ヨハネ第一3 : 4;ローマ6 : 23)。罪人は自己の罪を認めて、ささげ物を持ってきて、きたるべきキリストを代表しているその罪なきいけにえの頭に手をのせて罪を告白しました。動物は殺され、その血は祭壇の角にぬられ、また壇の下に注がれました。こうして告白したすべての罪人の罪は許され、象徴的に聖所に移されました。

【注2】7月10日は贖いの日でした。この日に聖所は、その年を通じて告白された罪の血の記録から清められました。この年毎のさばきの日の試験を通ることのできた者は、自覚しているあらゆる罪を告白した者だけでした。この奉仕は神の指示に厳重に従って行われました。大祭司は神の臨在が見られる至聖所の中に主の山羊の血を持って入って行きました。そこで血を注ぐことによって罪は象徴的に大祭司に移されました。そのあとで聖所を清めてから、大祭司はすべての罪の責任者であるアザゼル、またはサタンを代表している山羊にその罪を移しました。それから山羊は「忘却の地」荒野へ追放されました。

【注3】エズラは私たちの暦の4月にあたる「正月の1日」に出発しました。彼がエルサレムに到着したのは紀元前457年、アルタシャスタの治世の7年の5月1日でした。これは私たちの暦の8月と9月に当たります。ですから、勅令が発布されたとき、457年の半ばは既に過ぎていたわけです。